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罪を犯した者の手記は芸術か否か。

もふ。外中也だよ。知ってる人もおおいと思うが僕も意見を述べたい。

市橋被告の手記、26日発売 遺族は嫌悪感
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110125-00000043-sph-soci

アドレスには詳細が掲載されているため、そちらをしっかり読んで頂く方が語弊は少ないと思うが、要約すると

『被告の手記の発売が決まった。被告はその印税を懺悔のために使いたい、自分に何かできることはないかということを理由としている。編集担当者は「被告の観察眼、感性の豊かさを感じた」しかしながら裁判を目前にこのようなものを書かれ、遺族は遺憾である。』


まず、報道の内容を見ると、遺族への許可がなかったような記述になっていて、それはどうなんだろうかと思った。

いくらに対する描写等が殺人の内容が無いといっても、出版をしたいと思っているって話は通すべきではなかったのかな。それとも遺族が外国に住んでいるから許可を取られなかったのか? 反対されるとわかっていたから? だからって「言わなくて良いこと」ではないはずだ。

次に時期的なものである。被害者遺族のコメントにあるように、裁判を目前にした発売というのは、なかなか思い切ったものだ。そして、たとえ殺人そのものの描写が無いとしても、裁判員制度における裁判員の心を動かす材料ともなりえる可能性だってある。

この手記を表現の自由だ、そして懺悔だといえばそうである。原稿内容を知っているわけでも、犯罪者の心境がわかるわけでもない。けれど、僕自身こうして何かを書くことが好きだから、
「筆をとった」
ことを否定はしない。職業作家はもちろん、今作家を目指している人や、ブロガーでもツイートをする人でも、個人的に日記を書く人でも、物書きは1人1人思いをカタチにする。

それは一つの表現でありアートだと思う。

問題はこの手記が一人の人間のアート(表現)である同時に『出版社の商売道具でもある』ということだ。今回の件に関しては、話題性を呼び込み利益を揚げる為に、発売時期が決定されてしまったような感はぬぐえない。

人形浄瑠璃等の芝居の脚本家であった近松門左衛門も、そういう話題を作品に消化する天才だった。当時の結ばれない男女の心を描き、心中に至るまでをドラマにした。心中が流行する程のブレイクとなったわけだし、それらは芸術として評価されている。ということは、出版社の試みがあながち間違ているとも言い切れない。

だが、倫理的なことを言うのであれば、やはり遺族の思いを汲み取って時期を考えなければならないと思う。人に訴えかける「書籍」を扱うなればこそ。ノンフィクションであるからなおさらだ。

せめてこの書籍の印税がただの金儲けの道具ではなく、筆者である被告の思いを遂げる「架け橋」としてきちんと機能することを祈りたい。

外中也

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